樋口明雄『太陽を背にうけて』角川文庫を読了。
65歳で定年を迎えた里村乙彦。ファミレス経営会社の管理職として、真面目に仕事一筋に勤め上げ、ようやく迎えた定年だった。だが、あとの老後は家族と旅行を楽しもうなどと思いながら帰宅した彼を待っていたのは、思いもかけぬ妻からの離婚届だった。それまで家族を顧みることなく、常に仕事を優先してきた夫から、妻の心はとっくに離れていたのだった。
初めて自分の過去を振り返り、妻から離縁されても仕方のない人生であったということに気がつくが、すでにとりかえしはつかない。家族を失い、酒に溺れるだけの日々を過ごす里村。だが、娘からの「新しい仕事を見つけてみたら」という電話のひとことで、彼は生まれ変わろうとする。依存症の域に達していたアルコールを絶ち、日本で二番目に高い山、北岳の標高3千メートルに位置する山小屋で働くことにする。
65歳という年齢の里村にとって、山小屋での仕事は過酷だった。何度も失敗を繰り返し、他のスタッフに迷惑をかけ、自分の情けなさに涙を流し、それでも歯を食いしばって働き続ける。その結果、彼が得たものは……。
北岳を舞台にした「南アルプス山岳救助隊K-9」のシリーズを代表作とする著者の最新作なのだけれど、本作には派手な事件もなければ、アクションもない。山小屋で働く人々の仕事を丹念に描き、そこで働くことで再生する人間の物語を丁寧に描いているだけなのだ。それが、実にいい。
本書の魅力のひとつは、山小屋の仕事、山小屋で働く人々の毎日が、きっちり書き込まれているということである。小説には知らない世界のことを体験するという魅力が常にあるのだけれど、山小屋にはこんなにもたいへんな仕事がたくさんあって、それをどういうふうにこなしているのかということが、実によく伝わってくる。これがとても興味深く面白い。
そしてもちろん、そこで働く人々の人間ドラマだ。主人公だけではなく、他のメンバーにもひとりひとりにドラマがある。そこをないがしろにせずに、丁寧に描いていく。これまたいい。山小屋で働くような人間には、みんなそれぞれのドラマがあるのだ。
だがもちろん、本書のメインとなるのは、里村という65歳の男性の再生の物語である。これが、本当にしみじみといい。自分が主人公と同世代ということもあるのだろうけれど、読んでいてじわりじわりと染みてくる。その結果、最後の方のある場面では、ついホロリと泣かされてしまうのだ。いやあ、やられた。まいった。
ずっと樋口明雄の小説を読み続けてきてよかった。こうして、こういう素晴らしい作品に出会えることになったのだから。自信をもって一読をお勧めします。