【映画】ソード・アーチャー 瞬殺の射法

 中国武術映画『ソード・アーチャー 瞬殺の射法』を観る。
 軍閥時代の1917年。武術家の選ぶべき道は軍に入るか道場を開くかであった。道場を巡ってはお互いの争いがあり、それを仲裁する役割の弓術の達人、“柳白猿”という人物がいた。道場間に争いがある時、そこに現れては圧倒的な武術の力で争う両者を倒し、和解させてしまうのである。主人公は、その“柳白猿”に弟子入りし、修業を経て“柳白猿”の名を引き継いだ青年(ソン・ヤン)だ。
 青年はあるとき、酔いつぶれたところを面倒をみてくれた女性から、父の仇を討ってほしいと頼まれるのだが……。
 というストーリー説明はほとんど意味がない。なぜかというと、監督みずからストーリーを語るつもりがまったくないのだから。とにかく雰囲気のある映像、限界まで緊張感の張り詰めた映像によって、「なにか凄いものを観させられている」という圧倒的な印象は受けるものの、主人公が何を考えているのかとか、いったい何がどうなっているのかとかは、ほとんど伝わってこない。伝わってこないというよりも、そもそも伝えようともしていないのだろうとしか思えない。そのうえ、状況の分かりにくいカットバックが挟み込まれたりして、とにかくよく分からない。
 監督はウォン・カーウァイの『グランド・マスター』で脚本と武術顧問を務めたシュ・ハオフォン。彼が監督した『ファイナル・マスター』という武術映画が、他の武術映画とはまったく異なる異様な雰囲気に満ち満ちていた作品だったので本作に手を出したのだけれど、本作はあまりにも異端すぎる。究極の武術映画を生み出そうとした結果、哲学の世界に踏み込んでしまったとでもいうのか。いまいちよく分からないときのウォン・カーウァイのような作風の武術映画なのだ。
 武術シーンの描き方も、いわゆるエンターテインメントの武術シーンの文法をまったく無視して、アクションシーンで観客を楽しませようなどというサービス精神は皆無。本当の武術の奥義を身につけたならば、その闘いは激しいものとはならないのだと言わんばかりの演出なのだ。
 向かい合わせにした椅子に座った態勢での手合わせが何度か出てくるのだけれど、そこはなかなかに激しい。だが、立った姿勢での乱闘シーンになると、主人公の動きが滑らかすぎて、激しくならないのだ。しかも、瞬時にツボをついているのか、たいした打撃を与えているわけでもないのに相手がコロリコロリと倒れてしまうのである。従来の香港映画のアクションを見慣れていると、この乱闘シーンはいかにも物足りなく見えてしまう。しかし、それでいて達人の武術とはこういうものなのだろうと思わせる説得力もあるのだ。
 シュ・ハオフォン、恐るべき監督である。だが、絶対に一般受けはしない。
 ちなみに、全般的に禁欲的な雰囲気のただよう映画であるのに、なぜか女優だけはどこかちょいと崩れた感じの美人だったりする。シュ・ハオフォン監督、実はエッチな男なのではと邪推してしまったのだが、真相はいかに。