【映画】ソード・アイデンティティー

 中国の武術映画『ソード・アイデンティティー』を観る。
 1604年、明の時代の中国。その街では、武術の名門4家が道場を持ち、新たに道場を開こうというものはその4つの道場に挑み、全てに勝たなければならなかった。ある時、その街に異様な長刀を携えた2人の武術家が現れる。その長刀は、倭寇の日本刀を改良したもので、かつて倭寇を退けた武器でもあった。2人は、その長刀を広めるべく、その街にやってきたのだった。
 だが、その刀を邪道な武具であると見なした道場主たちは、彼らを倭寇であると決めつけ、押さえつけにかかる。そのために1人は負傷してとらわれの身となるが、もう1人は4大道場を打ち破るための行動を始めるのだった。
 一方、優れた武術家でありながら、名家の娘を嫁にもらったことがきっかけとなって、世を捨て山奥で隠遁生活をしていた4大道場の長老であるチウは、彼らの出現を知って山を降りてくるのだが……。
 というようなストーリーなのだけれど、このストーリーからは予想もつかない、理解不能の展開が続く。なぜなら、監督が昨日観た『ソード・アーチャー 瞬殺の射法』のシュ・ハオフォン監督なので、いわゆるエンターテインメントの文法にのっとった描き方をいっさいしていないからなのだ。ストーリーを丁寧に説明しようなどという気配はいっさいなし。とにかく、徹頭徹尾、よくわからない展開が続く。
 4大道場への挑戦に失敗した主人公は、西域から来ているとおぼしき踊り子に棒術の必殺技を伝授し、はしけに繋がれた船の入口にかかった布の後ろにかまえさせる。その船を包囲した4大道場の武術家たちは、道場主の命令でひとりふたりとその入口に近づいていくのだけれど、布からつきだされた棒によって片端から倒されていく。
 踊り子に道場主たちの相手をさせている間に、主人公は捉えられている仲間を救いに行き、今度は長老チウの若い妻に必殺技を伝授して、道場の中に入ろうとする武術家を入口の影から叩きのめさせる。
 つまり、練達の武術家たちは、そうとは気づかず、かたはしから武術の素養のない踊り子とか若妻に倒されてしまうのである。しかも、なんでその踊り子なり若妻なりが主人公の言うがままに武術家を倒していくのか、まるで説明なし。なに、この展開!
 しかも、闘い疲れた船の前で、西域から来た踊り子たちが踊っていたりして、なんとも理解不能
 インデペンデント映画などで、イメージを優先したあまりストーリーを物語ることを放棄したような映画に遭遇することがあるのだけれど、あのスタイルで武術映画を撮ったならこういう映画になるだろうというような、まさにそんな感じの映画なのだ。そのくせ、ときどき思い出したかのようにストーリーを物語りだし、クライマックスでは主人公と長老チウとの一騎打ちが展開されたりもする。だけど、その一騎打ちにしても、本当の達人同士が闘ったならばこうなのかもしれないというとても地味なもので、闘いのシーンで映画を盛り上げようなどという意図はまったく感じられない。
 シュ・ハオフォン監督の作品は、第3作の『ファイナル・マスター』を最初に観て、次に第2作の『ソード・アーチャー 瞬殺の射法』を観て、そして次に第1作の本作を観るというように、製作順を遡るようにして観たのだけれど、第1作がいちばんわけがわからなくて、だんだん分かりやすくなってきているということは言えそうだ。
 『ソード・アーチャー 瞬殺の射法』は、いまいちよく分からないながらも凄みを感じる場面が続いていたが、本作はそれもなく、非常に単調で正直疲れた。きっと、この監督の本質がいちばんストレートに出たのが本作で、そこから少しずつ商業映画に近寄りつつあるといったところなのだろう。
 『グランド・マスター』の脚本と武術顧問を務めたシュ・ハオフォンだが、こうした演出スタイルをみると、なるほど、いかにもウォン・カーウァイと相性がよさそうではないかと思えてくる。