【映画】ゴジラ-1.0

 浦和パルコのユナイテッド・シネマ浦和にてゴジラ-1.0』を観てきた。今回はちょっと贅沢をして、IMAXでの上映をチョイス。
 いやあ、IMAXで観てよかった。映像、音響の迫力がぜんぜん違う。
 映画は、不満があれこれあるにしても、総体的には大満足。
 まずは映像の迫力に大満足。銀座が灰燼と化す光景のすさまじさよ。日劇崩壊の光景など、リアリティたっぷりで、興奮させられる。電車を鷲掴みにして銜えるシーンの、ゴジラ1作目に対するオマージュもよし(そのあとの典子のぶら下がりはいささか無理があってちょっと醒めてしまうけれど)。いっそのこと、屋上から実況中継する放送員に「みなさん、さようなら」ぐらい言わせたかったとすら思ってしまった(やらない自制心が正解だけれど)。そして、熱線砲によるキノコ雲を背景にしたゴジラの姿の恐ろしさよ。
 戦後すぐという時代設定もいい。現代を舞台にしてしまうと、近代兵器対ゴジラという闘いになり、どんなに巨大であろうとも生物であるゴジラに勝ち目はない。勝ち目はないのに近代兵器がまったく通用しないというところに、どうしても無理が生じるのだけれど、終戦直後に時代設定をもっていったことでその問題をクリアしている。敗戦直後の日本が持つなけなしの兵器でゴジラに対峙せざるを得ず、そこでリアリティが生まれることとなるのだ。アメリカに参入させないために、説得力の欠ける理由をもちこんではいるけれど、乏しい兵器で挑まなければならないという設定があればこそ盛り上がるので、あれも正解。
 ところが残念ながら、本作ではゴジラを単なる巨大な生物ではなく、超常的な存在として描いてしまう。攻撃されて破壊された細胞は瞬時にして再生し、尾から背中にかけてのヒレが光りながらガシャンガシャンと飛び出してきて、銀座を一発で壊滅させてしまう熱線砲を吐く存在としてしまう。これはどう理屈をつけても生物としてはありえない存在で、リアリティが失われてしまう。山崎貴監督は「神様と生物の両方を兼ね備えた存在」と位置づけていたようだが、ギリギリ生物としてありえるかもしれないという存在にした方が戦後すぐという時代設定が活きてきただろうに。あれでは近代兵器であっても対抗できないことになってしまい、せっかく終戦直後を舞台にした効果が失われてしまった。
 ゴジラをどういう存在と位置づけるかという問題は実に悩ましい問題ではあるのだけれど、自分はギリギリ生物として描いてほしかった。
 それはともかくとして、最後の人類対ゴジラ海上決戦の場面は燃える。伊福部昭の音楽が力強く流れた瞬間に、血が沸き立ってくる。自分などはあの音楽が流れただけで興奮するように条件付けられたパブロフの犬と化しているせいもあるけれど、映像と音楽が実にマッチしていて興奮させられたのだ。
 ところで、あのフロンガスを使った海神作戦というのは、理屈が通っているのだろうか? どうにも納得がいかなかったのだけれど。徹頭徹尾無理だよね。
 あと、背の届かない深い海にもかかわらず、まるで浅瀬であるかのように海上に上半身を出してすっくと立っているゴジラって、水面下でものすごい勢いで足をバタバタさせて立ち泳ぎをしているのでしょうか? いや、文句じゃなくて単なる素朴な疑問なんですけどね。

 それと、本作を観ていて「こういう映画が観たい!」と思ってしまったのが、大戸島という閉ざされた空間において、巨大化する前のゴジラと島に残された日本兵との死闘を描くという映画。どちらかというと、超巨大怪獣が登場する怪獣映画よりも、かなり怖い怪獣映画になるのではないだろうか。いまや怪獣といえば今回のような超巨大な生物というのがお約束になっているのだけれど、そこまで巨大ではない生物と人間との闘いというゴジラ映画があってもいいのではないだろうか。というか、世界中でその手の怪獣映画を山のように作っているので、日本でも作ってくれないものだろうか。きっちりした脚本があれば、絶対に面白いと思うのだけどなあ。