【読書】ダフネ・デュ・モーリア『レベッカ』新潮文庫

 ダフネ・デュ・モーリアレベッカ新潮文庫を読了。新潮文庫の『レベッカ』は大久保康雄訳と茅野美ど里訳の2種類があるのだけれど、読んだのは茅野美ど里の新訳の方。
 ヒッチコックの映画は観ていないが、この有名な映画のせいでおぼろげなストーリーだけは知っていた。が、実際にその原作を読んでみて、そのあまりの面白さに圧倒されてしまった。とりわけ後半で衝撃的な事実が明らかにされたあとは、先の展開を早く知りたい、この先どうなるのかを一刻も早く知りたいという欲求に突き動かされて、本を閉じることができずに夢中になって読みふけってしまった。これほどまでに面白い小説であるとは思いもしなかった。
 海難事故で妻を亡くした貴族のマキシムに見初められた「臆病で落ち着きのない仔馬のようなわたし」。彼の新妻として訪れた優雅な大邸宅マンダレーには、美貌の前妻レベッカが存在した証があらゆるところに残されていた。そのレベッカが死んでなお、心より崇拝し、慕い続けるメイド頭のダンヴァーズ夫人。「わたし」の前には、常にレベッカの存在が亡霊のように立ちふさがるのだった。
 前半はマンダレーにやってきた「わたし」のとまどいが、じっくりと描かれていく。とりたてて事件と呼ぶようなできごともない。が、それでいてジワリジワリとレベッカの存在によって「わたし」が精神的に追い詰められていく様子がスリリングに描かれていく。
 そして、後半に入ったところでダンヴァーズ夫人の罠にかかった「わたし」がいっきに追い詰められていくのだが、このシーンの密度の高さよ。そして、その場面が信号弾の炸裂音で一瞬にして切り替わる展開のみごとさよ。そこから物語はいっきに加速して、マキシムの衝撃の告白でさらにページをめくる指がとまらなくなる。いやあ、面白い面白い。
 ところが、そうやってのめり込んで読んでいると、唐突に読者を突き放すかのようなラストシーンが待ち構えているのだ。えっ? えっ? これで終わるの? このラストの一文に驚愕してしまう。すごいな、デュ・モーリア
 読み終えるなり、あわてて「ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た。」という有名な一文で始まる冒頭部分を読み返す。そうすると、最初に読んだ時にはわからなかった陰鬱なニュアンスがはっきりと伝わってくる。
 「わたし」という人間が、ある瞬間にすっかり変貌してしまうというのも、実に痛ましい。「ぼくが好きだった表情、なんだか途方に暮れたような、あのおかしな初々しい感じ、あれが消えてしまった。もうもどってこない。」というマキシムのセリフに暗澹たる気分になってしまう。なんと切ない物語であろうか。恐るべし、デュ・モーリア。なんとシビアな小説家であろうか。
 さて、原作を読んだところでヒッチコックの映画をちゃんと観てみようと思っていたのだけれど、「訳者あとがき」を読むと「映画版を楽しみたかったら、原作を読んでしばらく間を措いてからにすることをお勧めしたい。」とあった。確かに、これほどの名作を読んだ後では、映画の不備が気になってしまうものかもしれない。